無差別殺人と大量死とミステリ

皆さんご存知と思いますが、この前の日曜日に、秋葉原で痛ましい事件がありました。
ボクは、夕方くらいから秋葉原行こうかなぁ、などと考えながらぼーっとしてるときに、ついったーで事件を知りました。
ほぼ、リアルタイム。
詳細はわからなかったけど、秋葉原で何かあった、というのはほぼリアルタイムで知りました。
そのあとも、followしてる人のpostとか、ustの映像とか、事件の起こった現場から送られてくる生の情報を、ただ見守るだけでした。


で、しばらくして落ち着いてから秋葉原に行きました。
──一応、行くような用事と言うか、コミックとか買ったり、GoodRockとかZOID行こうと思ってたんで。
行ったときは、まだ現場には規制線がしかれていました。
少しして通りがかったときには、花が供えられていて、その周りをマスコミが取り囲んでいました。
まだ、献花台は設置されていませんでした。
いつも行く場所で、いつも何気なく通り過ぎていた場所で、あんなことが起こったなんて、今でも信じられません。
きっと、今度行っても、同じように信じられないのかもしれません。
現実感がない、というのではなく、あまりにも現実過ぎて、自分がその現実の中にいるということが信じられない、と言った方が良いかもしれない。


と、そういう感傷は本題ではなく、じゃあ、ミステリと言う人の死を主題に扱うことの多い小説を好むクラスタにいる人間として、このような大量殺人事件に、何か言わなきゃ行けないんじゃないか? と。
最近は、ゲームとかが動機の一端にされることが多いようです。
(その是非は置いておいて)
しかし、いくらゲームなどが原因だと言われたとしても、ミステリに比べれば、と思います。
誕生してから100年以上、ひたすらに人を殺して殺して殺して殺し尽くしてきたのがミステリです。
殺し方だって、多種多様。
撲殺に始まり、毒殺絞殺刺殺銃殺、技巧の限りを尽くして殺します。
もし、ボクがそのような事件の容疑者になったとしたら、どれだけ頭のおかしい人間として扱われるのだろう、と。


また、言いたいことからずれた。むう。


ところで、ミステリには、大量死とミステリを絡めた論があります。
乱暴にまとめると、
世界大戦などの大量死→人間の死の意味が希薄に→ミステリで「特別な死」を与える→人間の存在回復!
というのだったっけ?
詳しくは、探偵小説論概説でも読めば良いと思う。
それで考えると、今のミステリの微妙な状況も、何となくわかると思う。
大量死から人間存在の希薄化がもたらされるのと同じように、現代は情報化により人間存在の希薄化がもたらされているのではないだろうか?
ただ、それは大量死によるものよりもゆっくりとした、曖昧なものであるから、カウンターであるミステリもまた、曖昧なものになってしまう、と考えられるんじゃないかと。


そして、ミステリによる死の特別化を押し進めると、小説、マンガ、映画などの「物語」による、死の特別化、人間存在の確立というのが見えてくる。
例えば、いわゆる「ケータイ小説」で、人の死が簡単に扱われるのも、実はこのあたりの意識の顕在化と見ることはできないか?


この、死の特別化による人間存在の確立というやつは、物語だけでなく、現実の事件についても行われる。
──さぁ、やっと今回の事件にきたよー。
今回の事件の報道で繰り返し語られるのは、被害者がこういう人だった、何をしにきていたなどのこと。
これは、今回の事件に限らず、何か事件が起こると同じようなことが繰り返されます。
つまり、報道により被害者をただの被害者ではなく、バックボーンに「物語」を持った「主人公」として描くことにより、事件による死を特別な死として描いているわけです。
このとき、報道を「客観的」に見ている人にとっては、事件の被害者=物語の主人公、となっているんじゃないかと。
これが、果たして健全な状態なのか?
まぁ、それはきっとそっちの専門の人が、そのうち解説してくれるだろうから、どーでもいいや。


しかし、この「物語を用いた死の特別化による人間存在の確立」というのは、既に破壊されつつある方法だと言うのは、追記しておきたいと思います。というより、小説などによる作用が限界を迎えつつあるから、現実の事件による作用が強くなってきたのか?
それを後押しするインフラ(インターネットなど)も普及したからだろうなぁ。


最後に、亡くなられた方達のご冥福をお祈りいたします。
──もしかしたら、ボクがあなたたちの隣にいたかもしれません。

[Today's tune]The Pretender/Foo Fighters