紫色のクオリア読書会とライトノベルの限界? な話

先日のライトノベルサイト管理人連合ローカルリフレッシュコンベンション、
略してラ管連ロリコン! というふぁぼったーでは禁止ワードに指定されているようなイベントで、紫色のクオリアの読書会がありました。

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

結論としては、「紫色のクオリアラブプラス」となったわけですが、
そこに至までには活発な意見の交換などがありました。


で、ちょっと考えたのは、紫色のクオリアの中で使われているワードが難しい、よくわかんない、
という話から発展して、ラノベでSFをやるにはこれが限界、という話。


例えば、量子論とか平行世界とか、そのあたりのワードが使われている訳ですが、
そのあたりって、本当に難しいの? って思うんですけど。
自分も、ちゃんとした意味を説明しろ、と言われればできない訳ですが、
でも、なんとなくの概念はそことなくわかります。
どうやら、読書会では、そういう言葉がわからない=そこで思考停止という方が多かったように思えるのが、
ちょっと残念なところ。
理系/文系とか、その人によって違うのでは? という意見もありましたが、
そんなことを言い始めたら、いわゆる理系と呼ばれてる人は、
小説自体が文系的なものなので、完全アウェーだよ! と思ったりも。
個人的には、数学科という理系の中では「理系じゃないよね」と言われ、
いわゆる文系の人からは「思いっきり理系じゃん!」と言われる、コウモリのような学科で勉強してたので、
理系/文系なんて幻想だ、と思ってる訳ですが、世の中そうではないようです。
というより、量子力学とか、そのあたりはおれだって専門外だよ!


それでも、紫色のクオリアの中で使われてる言葉、世界観をちょっとなぁ、と思ったのは、
そこに論理的な矛盾点などが多かったから。
読書会でも、その辺りが指摘されていましたが、あとから録音したものを聞き直してみると、
どうやら指摘してる側と反論側でちょっと認識が違ってるんじゃないかなぁ、と思う節がありました。
指摘してる側は、使ってる単語の学術的意味とかというよりも、
その前後での論理性、整合性がとれていないところがあり、それが瑕となっている、という意図でしたが、
反論側は、そもそもの単語の意味もわからないから、「何かすごいことをやってる!」と感じていて、
その先にある瑕はどうでもいい(?)というような主張でした(と思います……)。


確かに、ただ読んですげーっていうくらいなら、それでも良いのかなぁ、とも思うけど、
ただそこで思考停止するのであれば、そこですべてが止まってしまうし、
読書会なんてやる意味もないんじゃね? とも思ったりもするんですが。


で、そのあたりから発展して、
ラノベでSFをやる時の閾値」「ラノベの限界」
という話題がありました。
確かに、使われてるワードとしては、これ以上のものを使おうとするのは難しいかもしれない。
でも、ラノベ閾値、限界って何?
「論理的に矛盾のないもの」は難しいから、「論理的に穴があるもの」がラノベとしてはふさわしい、
ということなんだろうか?
たぶん、読書会ではその辺りの認識齟齬があったまま、こういう話になったから、
このあたりの話題が出てきたんだろうけど。


ところで、最近話題になったりしている「生徒会シリーズ」(アニメ化!)とか
ラノベ部」(おすすめ!)とか、あの中で使われているのも、一種のテクニカルタームです。
オタクだからこそ、ラノベ読みだからこそわかるワードのオンパレードですよね?
それでも、ラノベとしてわかる、というのはやっぱり読んでる本人がラノベ読みだから?
でも、そこでわかるものだけをラノベとして認める、というのはちょっと違うんじゃない? とも思うんです。
シュレーディンガーの猫」も「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」も、
見る人によっては等価値に意味のわからないものなわけで、
わかるものだけ、というのなら、それは専門書と言っても良いんじゃない?
ラノベ=専門書
と言っても、良いんだよね? となってしまいます。


でも、それじゃやだよね?
ラノベに限界なんてないと思ってる。
例えば、ハードSF並みのワードを使っていたとしても、
ボーイミーツガール(ガールミーツガールでも可)で、ドキドキするような冒険があって、
ちょっと切ない思いに溢れていて、素敵なキャラクターに恋したり、
甘いハッピーエンドにほっとしたりできたのなら、それでラノベって言えないの?
それが、電撃文庫とか富士見ファンタジア文庫とかスニーカーとか
一迅社文庫とかガガガ文庫とかメガミ文庫から出てれば、きっとみんなラノベだって言うんだよね?
例えば、「たったひとつの冴えたやりかた」が電撃とかから出ていれば、みんなラノベだって言うかもしれないし。
逆に、昨年大ヒットした「とある飛空士への追憶」とかも、
普通の新潮文庫とか角川文庫とかから出れば、架空戦記ものと言われるだけで、ラノベだって言われなかったはず。
(もしかすると、ラノベの定義の拡大により、ラノベという認識はされていたかもしれない)


さて、もうそろそろ、話が危険な領域に近づいてきた。
限界とかそういうのがあるのであれば、その限界があるラノベってなぁに? ってところ。
もしかして、限界なんてないはずのものに、こちらから限界を設けようとしてないか?
確かに、ライトノベルのメインターゲットは中高生ということで、
マーケット的なものはあるかもしれない。
でも、だからって中高生でもわかるということばかりを考えるのは、ちょっと中高生をなめてないか?
読む人は、中高生だってハヤカワの青背読むし、新本格ミステリどころか海外黄金期だって読めば、
芥川だって太宰だって読むよ?
もちろん、そんな層はほんの一握りだっていうことは理解してるけど、
どんな人でもわかるもの、誰でも理解できるもの、というのは発展性がないように思える。
「ちょっと」努力すればわかるもの、理解できるもの、という方が、
読者にとってはいいと思うんだけど。
少し苦労して読んだ方が、読み終えたときの感動とか、後に残る思いというものは強い(はず)。
わかりやすいもの、簡単なもの、現状の売り上げ、マーケットというものを意識しすぎるが故に、
ジャンルの発展性というものを見ていないのでは? と考えられなくもない。
それに、今のままじゃ、読者の成長というのも難しいんじゃないのかな?
読書会で、「クオリアからSFに興味を持った」という意見もあったけど、
ただ、ここからハヤカワとか読むようになるか? というとちょっと疑問がある。
(ほぼ)間違いなく、1冊目の途中で読めなくなるんじゃない? と思う。
(周りからよっぽど良い本を薦めない限り)
だったら、そこで出版社側は、SFっぽいラノベ→SFまでの道筋をつけてあげるのが良いんじゃないのかな?
そのあたりのパスを埋めるような作品があれば、読者の側もすんなりSFという豊穣な海にこぎだすこともできると思うんです。
──そこまで出版社に甘えるな! と言われればそれまでなんだけどね。


と、紫色のクオリアを読書会でもこのエントリでもだめだめ言ってる気がするけど、
そんなに悪いものじゃないと思ってる。
というより、あの1/1,000,000,000のキスのラストは良かったとさえ思ってる。
だからこそ、細かい瑕さえなければ、と思うんです。