コンテンツのドラマ性

5年ほど前になりましょうか。純愛系というか感動系というか、過剰なまでのドラマ性を売りにしたコンテンツが一世を風靡しました。
そのあと、数年がたち、世の中にはまたもや感動系の風が吹きました。
別に、一般的なコンテンツがエロゲーに数年も遅れているとかそういうことを言いたいわけじゃなくて、エロゲーでも映画でもドラマでも小説でも、現在日本で流通しているコンテンツの優劣を判断する外すことのできないようその一つが、ドラマ性だということです。そこまでに感動とかのドラマ性を求める人が多いのか、世の中からそういう系統のドラマだとか小説がなくなる気配がありません。
穿った見方をすれば、ネットのblogだとかSNSの流行も、ドラマを求めるユーザと日記により自分がドラマの中心となりたい書き手の利害が一致した結果なのかもしれないです。


さてさて、こういう書き出しで始めたということは、結論を逆に持って行きたい、ということです。技術的な文章では嫌われる書き方ですね。うん。
ここまで感動だとかそういうのを過剰に見せられると、反動として考えられるのが逆に感動だとかそういうドラマ性を排除していったコンテンツ。
そういう方向性で最先端を走っているのは、たぶん感動系のときと同じくエロゲーだとかそのほか周辺の、いわゆるオタク系コンテンツ、
だって、あれですよ、あれだけ中身のない「萌え」に特化したものを次々と作り出すなんて、そんな理由でもない限りありえないですよ。
ただ淡々と、「萌え」に関する描写のみを描き続け、見る人に抑えがたい感情を抱かせるのは、精緻な文章で静かな恐怖を描き出した芥川の蜃気楼を彷彿とさせます。


まぁ、こうやって言っておいて、萌えたりする自分を正当化してみたりしてみます。

[Today's tune]The Reason/Hoobastank