顔のない裸体たち(平野啓一郎)

顔のない裸体たち (新潮文庫)

顔のない裸体たち (新潮文庫)

文庫で読みました。
おそらく、これであと読んでいない平野啓一郎の小説は、葬送だけになったはず。
(積んでます)


Web方面についても、作品内や対談などで言及することが多い平野啓一郎ですが、単に、
「ネットってこんなんすごいんだぜ?」
というのはなくて、(当然ですが)
ネットというものを通して見えてくる人間性とか、そう言った方面を描いているのがうまいなぁ、と。
というより、今まで十分に描けていなかったものを、ネットを使うとうまく描けるようになったというか、
今まで簡単には起こりえなかった問題が、ネットにより容易に起こりえるようになった、と言うべきか。


顔のない裸体たちを読んで思ったのが、
「あー、これ、ボクじゃん」
ということ。
もちろん、ボクが、作品内で行われているような行為をやってるというわけじゃなくて、
二つの顔を持っているということ。
と言うと、なんだか重いみたいだけど、簡単なことで、こうやって本の感想とか小説を書いている「長屋言人」と、本名のボクは、やっぱりちょっと違うわけです。
今までの人生で積み重ねてきた社会的生活圏とは少し離れたところで、小説とかの方面の人間関係が生まれています。
さらに言うと、同じ「長屋言人」でも、小説関係のときとメイドさんのお店に行くときとでは、やっぱりちょっと違います。
これってどういうことかと言うと、同一となる自己が複数存在することになるんじゃないかと、
まぁ、ずーっと昔にお勉強したことを思い出すと、いわゆる「ペルソナ」というやつが、複数、しかも強い形で現れるようになってるんじゃないかと。


今のボクたちは、「ひとつである自分」というものに、異様なほどに執着しているけど、これから先、「複数の自分を使い分ける」人が、どんどん増えて行くんじゃないか、と思う。


と、そんなわけで、文庫の解説はひどく的外れだと思う。
これは、非常によろしくない。
と思ってググったら、あー、こういう人なのね、と納得。