三四郎(夏目漱石)

三四郎 (新潮文庫)
海辺のカフカを読んだあと、そのまま帰るのにも微妙な時間だったんで、古本屋に入り、適当な本を探して読むことにする。とりあえず、150円で三四郎を購入。
……いや、なんで漱石
ええと、いまさらあらすじも感想もいらないですよね?
百年近く前(!)に書かれたものながら、今でも十分に読むことに耐える、いや、むしろ最近の意味のない小説群とは比べものにならない素晴らしさ、というのはさすが漱石と言うべきでしょうか。それとも、漱石と比べちゃ最近の小説家がかわいそう? まぁ、最近の小説も映画になったりドラマになったりしてみんな感動しているので、非常に素晴らしいと思うのですが。……全然嘘じゃないですよ? だって、あれだけ多くの人が感動して泣けるというのは、きっとそれだけすばらしいとゆーことなんですよ。決して、見ている人が単純だとかそんなもんで感動するの? とか商売うまいなぁとかおまえら結局はかんどうしましたーとか言いたいだけじゃねーのかとかそう言う訳じゃないですよ?


ところで、三四郎を読みながら、隣に座っていたカップルの会話が聞こえてきました。
どうやら女の方が、オリジナルで小説を書く、で、そのストーリーを男の方に話しているという状況だったみたいです。
で、女の方が話していたあらすじを大まかに説明すると、11歳の時の自分と21歳の時の自分が出会う、というもの。それでどうするのか? までは話してなかったですが、きっと誰かに恋したり別れたり感動したり泣いたりするんでしょう。ちなみに最後は夢オチらしいです。
面白かったのが、男がそれをしきりに褒めていたと言うこと。
彼にすると、これはとても独創的で面白いアイデアらしいです。
……ええと、ボクそれに似たの読んだことあるよー。
実際に顔を合わす、というのじゃないですが、乙一のアレが類似作品だと思われます。
ぱっと思いついたのは乙一ですけど、探せばいくらでも出てくるんじゃないかなーと思われます。
昨今、アレとかアレのおかげなのかは知りませんが、「小説」が流行っているみたいです。
まぁ喫茶店カップルが小説を書くという話をしているんだから、相当流行ってるんでしょう。若者の「誰もが」感じることを「素直に」表現した、文章も話し言葉と一緒でわかりやすい、などが流行の理由らしいです。
言文一致というのはそれほど問題視する必要もないと思っています。
漱石の昔から、始まっていたことだし、言語は変わり続けているのに小説は変わらないで居ても良いという道理がありません。
問題は、「素直に」表現と言うところ。(「誰もが」というのは言うまでもなく欺瞞でしかないのでここでは触れません)
この「素直」というのにこだわりすぎているせいか、読書経験というものが徹底的に軽視される傾向にあると思うのです。いや、実際の作者が読書経験が少なくてだめだ、といってる訳じゃないです。読む側の経験が少なすぎる、と言うわけです。
例えば、隣に座っていたカップルの話ですが、彼女が話していたあらすじは、大別するとSFになるのかな、と思います。それならば、早川文庫のいくつかは読んでいるのか? とか。もしそう言う意識が時間を超えるというものに興味があるなら、タイムトラベルもののいくつかには目を通したのか? だとか。つまりは、これまで延々と積み重ねられてきたものの一番上だけをさらっと見て、そしてこれで良いんだ、と思ってしまうことが怖いんじゃないかと。
もし、小説というものがずっと単調増加関数的に進化を続けてきていればそれで良いのかもしれませんが、実際のところはそうも行ってないのが実情です。
小説を読んで感動して、自分でも書いてみよう、と思うのは問題ないです。むしろ、非常に良いことだと思います。ただ、実際に書いてみるときに、それだけだと絶対に到達できないと思うのです。
誰も竹取物語とか紫式部まで振り返って読め、とは言いません。
でも、明治以降なら振り返ってみたり、好きなジャンルとかモチーフなら、書く前にちゃんと押さえておいた方が良いんじゃないかな、と思っただけです。