ディエンビエンフー(西島大介)

ディエンビエンフー (100%コミックス)

ディエンビエンフー (100%コミックス)

帯の言葉は「世界一かわいい、ベトナム戦争」。
西島大介の特長と言えば、このキュートな絵柄で、信じられないくらいに鋭い物語を突きつけてくるところで。こんなにかわいいのに、ベトナム戦争ですよ。次々とあっさりとどんどんと人が死んでいきます。しかし、ただ単に戦争はいけないとか人が死ぬのは悲劇だとか言うんじゃなくて、こんな「馬鹿みたいな嘘」のほうがしっかりと心に響くというか。
ところで、最近「セカイ系」と言われてるものはいったいほんとはなんなんだろうか、と思うことがあったり。一般的に指摘されているように、「キミ」と「ボク」の間に存在しているはずの「社会」の欠如? それが「セカイ系」? 感覚的には、「日常」と「ハルマゲドン」の間に存在しているはずの「社会領域」の欠如というのがわかりやすいですが。
この社会領域の欠如が、セカイ系と呼ばれるものの最大の特徴でもあり、もっとも批判される部分でもあるようです。「人と人」を書くのであれば、その間に存在するはずの社会を書かなくてはいけない、二階堂先生の日記をちゃんと読めば、もっと詳しくどんなところがだめなのかを書いているのかもしれませんが、チェックしているわけでもないのでセカイ系に対する反論は割愛。ちょっとでも検索したらずらずらと引っかかると思うので、そちらでどうぞ。
で、それだけ批判されながらも「セカイ系」に連なる作品が各分野で次々と創られていて、それが読者や視聴者に受け入れられているのはなぜか? 読む人見る人が皆二階堂先生のような人なら、セカイ系の小説なんかは1冊も売れないはずです。しかし、現実にはセカイ系と呼ばれる作品は、アニメ、小説、コミックとどんどんその領域を拡大しています。穿った見方をすれば、昨今流行している感動系の小説群も、自分と相手との間だけがクローズアップされていき、それが小説世界のすべてであるという、ある意味「セカイ系」に通じるところがあるんじゃないかと。……いや、「せかちゅー」も「いま、あいにいきます」も読んだことないんですがっ。
つまりは何が言いたいかというと、人(少なくとも日本人の一部)が感じる「自分」と「セカイ」のあり方というのが変わってきているんじゃないか。ということです。
たった10年前と比べても、情報の流れ方、コミュニケーションの取り方、「自分」と「セカイ」を結ぶものは大きく変化しています。これだけ繋がり方が変わったんだから、人間のほうの認識だって変わっていくはずです。
変化していく認識の観察例というのが、セカイ系の一面ではないでしょうか。
だから、この先いったいどう変わっていくのか、それが楽しみです。
あ、ディエンビエンフーについてほとんど語ってないですね。
とりあえず、この変わりつつある認識を持った人間をベトナム戦争に放り込んでみましたっていうのが、この作品じゃないかと思うわけですよ。

[Today's tune]ヘッドフォンチルドレン/THE BACK HORN