技術的な言葉と詩の言葉の相違点

さて、仕事で書類を書くときは、技術的な文章を書くわけです。
そして、小説を書くときは、詩の言葉を書くわけです。
やっぱり、これらはまったく違うものだというのを実感しています。
技術文書の本でも、良文の例として谷崎が出されたりするわけですが、やっぱりちょっと違ってますよね。
言葉というのは思考を紡ぐもので、文章というのがその思考をトレースしたものだ、といえば同じかもしれませんが、そもそも思考の内容が違うんだから、自ずから目指す方向は異なってくると思うんです。
技術文書で重要なのは、結論を明確にすること。
読んだ人に、どのような内容について書いているかを考えさせてはだめなわけです。読み手がその文章がなんなのか? というのを考えてしまっては、技術系の文書としては失敗なわけです。
優れた技術的文書というのは、読んだ人全員が同じ結論をすぐに得ることができるものです。読んだ人によって結論が違うようでは、役に立ちません。
──これは、報道文書でも同じことが言えるでしょう。
読む人によって受け取る内容が違うようでは、報道として失格です。
極論を言うと、日本語を読める人であれば、中学生小学生であっても、内容を正しく理解できなければ行けません。
というわけで、大学入試出題率No.1をうたい文句にしている全国紙は、大学入試レベルの読解力がないと理解できない文章を書いている、というのを恥じるべきです。少なくとも、自慢して良いことじゃない。
さて、ここまで技術的な文書について述べてみましたが、小説──詩の言葉は違います。
表層をなぞっただけでは、意味がありません。
そこから何をうけとるのか? というある意味化学変化のようなものを起こしてこそ、詩の言葉と言えます。
つまりは、受け手側の方にも、文章を読むという行為を自覚的に行う必要があります。


で、これまで違うと言うことを書いてきましたが、書くという行為においては、似ている点もあります。
それは、両方とも所詮は書き手の思考をトレースしているに過ぎないと言うこと。
考えていないと、書けません。
技術的な文書も、詩の言葉も、両方とも、自分の中から出さなければならないです。
自分の思考を、いかにトレースするのか? ということこそが、文章を書く本質なのではないでしょうか。


……結局まとまらなかったなぁ。
反省。

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