アニメに見る情報量

いや、あのですね、Fate/stay nightが最近アレだったり、ひぐらしのなく頃にもアレだったりするので。
やっぱりですね、アニメというものにこめられる情報量というのは、ノベルゲームや小説に比べて少ないと思うのですよ。
一瞬、映像の方が文字よりも情報を多くこめられそうな気がしますけど、実際のところは逆である場合が多く。ライトノベル原作は、原作を知らないでアニメだけ見たのなら、それほど違和感ないのかもしれませんが、下手に原作を知っていると、どうしても気になるところがあるんですよね。
例えば、Fateの小次郎なんかはその最たるもので、あそこで燕返しが破られたのは刀が曲がっていたせいだ! というのを声を大にして言いたいわけなんですけど、アニメではほとんどそんな説明はなく。(ちょっとだけありましたけど)それに、ゲームではうざいほどに繰り返される士郎の昔の話がほとんどないので、セイバーとの関係もどこか希薄なわけです。あれは、土蔵で見て惚れたというのもあるけど、二人の間の相違点というのが重要になってくるわけで。
それに何よりも、文字がないと我とかいてオレと読んでいるのがわからないじゃないか! と。
あれじゃあ、ギル様がただの我が儘大王じゃないですか! ……あれ、それで良いのカナ? カナ?
あと、ひぐらしはやっぱり文章で読んだほうが怖い。
いや、アニメでも十分やってるとは思うんですが、やっぱりあの文字で読んでいくときの恐怖にはかなわないんですよ。後半、だんだんと追いつめられていく、あの恐怖がどうしても映像が文字に負けているような気がするんですよね。
反対に映像ならではの面白さを発揮しているのは涼宮ハルヒの憂鬱
原作を読んだと言っても1巻だけなんですが、映像ならではの見せ方というのがうまくきまっていて面白いです。はじめは絶対について行けないだろうと思っていた構成ですが、これが逆にハルヒの雰囲気にあっているんじゃないかと言うことに気が付いて以来、はまってきてますね。
と、ちょっと整理してみると、小説に入れられている情報というのは、文字を読めば(ある程度)気が付いて処理できる情報であるのに比べて、アニメなどの情報に入れられている情報というのは、気が付かない限りスルーされるような、各情報のDBのようなものを自分の中に持ってない限り意味のない情報なんじゃないかな、と。
まぁ、涼宮ハルヒの憂鬱ミステリックサインを見てそう思ったわけです。
長門が最後に読んでいるのが神林長平なんて、読んだことある人にはすごく意味のあることですが、神林長平を知らない人には、ただいつものように本読んでるなぁ、で過ぎてしまうことだなぁ、と。
まとめると、桜蘭高校ホスト部ハルヒかわいいよ、ハルヒ、で。
いやですね、あのですね、この前の休みにマンガ喫茶桜蘭高校ホスト部の4巻まで読んできたんですよ。面白かったんですよ。もちろん、アニメも面白いわけですよ。ハルヒ坂本真綾なわけですよ。
もう、どうしろと?
あ、今日は涼宮の方のハルヒストロベリーパニックですね。うん。

[Today's tune]タクシードライバーブラインドネス/Syrup16g