涼宮ハルヒとミステリの微妙な関係

数日前から、涼宮ハルヒシリーズとミステリの間の関係についての話題をネットで目にして、興味深く読んでいる。ハルヒシリーズは憂鬱しか読んでいないとはいえ、ミステリとライトノベルという、ネット社会ではそれなりの勢力を持ちつつも一般的にはほとんどどこにいるのか分からないくらいのニッチな分野に生きるものとして、とりあえず何らかの反応はしてみないといけないのかな、と。
とりあえずは、リンクを
週間書評 『涼宮ハルヒの憤慨』/涼宮ハルヒをミステリ史に位置づける /小森健太郎
一本足の蛸 涼宮ハルヒをミステリ史に位置づける前に気をつけるべきこと/id:trivial
まずは、小森健太郎の「小栗虫太郎」─「松本清張」─「清涼院流水」という、大胆な説に驚愕です。
この大胆な説に対する個人的な見解を述べさせて頂くと、清張は語れるほどに読んでいないので外すとしても、小栗にしても流水にしても、作品に現れているのは小森健太郎が語るように「探偵の主観的な願望」ではなく「作者の主観的な願望」と言った方が正しいんじゃないか、と思います。
黒死館殺人事件ISBN:4390108867、小栗が「最高の探偵小説」を目指して書いたものですが、この「最高のもの」はこうであるべき、という作者自身の目指すところこそが、過剰なまでの衒学趣味であり、黒死館という異界であったわけです。流水にしても、同様のことが言えるんじゃないかと。
ちなみに、小森健太郎の書評の中では「探偵の主観的な願望」「人間原理」というもので三者を繋げているわけですが、流水の大説の中では、「主観的」であるべき探偵がいないと思うんですよ。まぁ、「探偵」という名前が付くやつなら掃いて捨てるほど出てくるわけですが、その中で「主観的」と言えるほどの探偵が果たしているのか? というと、疑問ですね。


さて、ここから涼宮ハルヒシリーズの話に入っていくわけですが、前述の通り、実は憂鬱しか読んでないんですよね。それじゃあ、いったい何を語れるのか? と言うわけですが、全くのその通りで、涼宮ハルヒについてと言うよりは、上でリンクさせて頂いたエントリに対する感想というか反応というか、そんなものを書くことにします。
まず、結論としては、おおむねid:trivialさんに賛成ということで。
……憂鬱とアニメだけじゃ、それしか結論が出しようがないというのもありますが。
結論のあたりで、

涼宮ハルヒをミステリ史に位置づける前に気をつけるべきこと。それは、涼宮ハルヒがミステリの探偵役として全く活躍することがないということだ。

ということを述べられていますが、実はこの事実こそが、ミステリとライトノベルの間に横たわる深くて暗い河なわけです。
ミステリの基本的な形態は、犯人(作者)の仕掛けた謎を探偵(読者)が解く、というものですが、それに対するライトノベルの基本的な形態は、主人公(読者)がヒロイン(作者)と出会う、というものだと考えています。
ミステリ側について詳しくは、笠井潔の探偵小説論序説ISBN:4334973361
ライトノベル側は、今、即興で考えたので、大いに突っ込んでください。
さてさて、問題は、読者が片方では探偵であり、もう片方では主人公であるという点。
ライトノベルでも、主人公が探偵だったり、ミステリの形式を比較的緩やかに適用したようなミステリであるならそれほど問題はないと思います。
逆に、ヒロインを探偵にしようとした場合には、どうしても齟齬が生じるんじゃないかと。
ライトノベルでのヒロインは、主人公(読者)から見た場合には絶対的な他者であるために、その視点に立つことができず、ミステリとしての「探偵役」にはなり得ないわけです。
この齟齬を解決するためのひとつの道具として、昔からワトソン役といういてもいなくても変わらないような登場人物がミステリにはあるわけです。
この無色透明なワトソンを通すことで、探偵を「他者」でありながら「主人公(読者)」という奇妙なポジションに置くことができ、それではじめて、ライトノベルでミステリができるわけです。
主人公がワトソン役、ヒロインが探偵という形式で、ライトノベルミステリになっている好例が、GOSICKシリーズ(桜庭一樹)ISBN:4829162295
ちなみに、ライトノベルの基本形式と親和性が高いのがSFだと思います。
SF者でない私が考えるSFというのは、主人公が誰かと出会い、超科学的な体験を経ることにより何らかの変革が起きる、というものだと考えています。この「誰か」をヒロインと考えてみれば、ほとんどライトノベルの形式そのままなので。


にしても、突っ込みどころ満載っぽいなぁ。
常日頃から、もうちょっと考えないと駄目だな。うん。

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