ライトノベルというジャンルはない

副題は、「ライトノベルフレームワーク論」。
論と言うほど大それたものではないけれど。

  • 序文

ライトノベルについて話すとき、いつも気になっていることがあります。
それは、「ライトノベルって何?」という問いの答えがあまりにも曖昧なこと。
つまりは、ライトノベルの定義が、しっかりとされていないと言うこと。
それなのに、ライトノベルについて語ろうとするのは、おかしい事態なんじゃないか? と。
wikipediaをはじめとして、ほとんどが「ある特定のレーベルから出版されていればライトノベル」と定義していますが、そんな定義が通用するわけがない。
だから、「いわゆるライトノベルレーベル以外でも、乙一西尾維新は別」とかいう断り書きを入れなきゃいけなくなる。
そもそも、そういう「特別枠」をもうけなければいけないことが、自身で定義したライトノベルの定義に誤りがある、と言うことじゃないだろうか?
そこで、「ライトノベルの定義」というものを考えてみることにしました。
もちろん、「レーベルが同じ」などという外部要因的な定義ではなく、作品内部的な定義を。
ボクは、ちゃんとした評論家ではないし、文学評論に関する教育を受けたわけでもないので、「文学的な歴史から見れば〜」とか、「哲学的な見地からすると〜」とか、突っ込みどころは満載だと思うので、コメント、トラックバックはてブなどで突っ込み頂けると幸いです。
というより、そういうもので、さらに考えを深めていこうというのが趣旨です。

  • 本論

ライトノベルは「ジャンル」ではなく、小説を書く際に使用する「フレームワーク」のひとつである。」

  • 解説

1.フレームワーク
小説には「ジャンル」というものがあるのは、先刻承知のことと思います。
殺人事件などの「謎」を扱っていれば「推理小説」、科学技術などを扱っていれば「SF」などです。
(もちろん、どちらのジャンルもこんな一言で言い表せるものじゃないことはわかっていますが)
このジャンルわけがどうやって行われているかというと、
小説全体の集合をS、小説内で使用されている主なガジェットをGとした場合、
G(x)(S∋x)がどのジャンルの要素になるか? という点で決められています。
式にすると、こんな感じ。
S∋xに対して、G(x)∈{t;J(t)} (J⊂ジャンル)


例えば、ミステリの場合は、
G(x)∈{t;Mystery(t)}
と表すことができます。
SFなら、
G(x)∈{t;SF(t)}
です。
この、MysteryだとかSFというのは、それぞれトリックだったりロジックだったりセンス・オブ・ワンダーなど各ジャンルで「核」と認識されているものの集合だと考えて下さい。


具体例として、黄金期の傑作、オランダ靴の謎/クイーンを挙げてみようと思います。
G(オランダ靴)=名探偵、密室殺人、ロジック、読者への挑戦……
などが出てきます。
これらの要素が、集合Mysteryに含まれているだろうということは、納得して頂けると思います。
ミステリ以外と言うことで、SFから、戦闘妖精雪風/神林長平を考えてみると、
G(雪風)=異世界人工知能、機械と人間の関係、未知との遭遇……
など、これもSFに特有のガジェットです。


これらの例を見てわかるように、ジャンルを決定するためには、それぞれのジャンルで核となるガジェット=要素が必要なわけです。
ボクが、「ライトノベルはジャンルではない」という根拠は、ここにあります。
百花繚乱の様相を呈しているライトノベルの現状では、この「核となる要素」を見定めるのは、もはや不可能です。
もし、無理矢理決めてみたとしても、ある小説では当てはまるけど、他のではまったく要素が入っていない、という事態になりかねません。
#ここが、本論での肝となるところなので、何か事例があれば、いちばん指摘頂きたい部分です。


例えば、昨年から大ヒットを続けている、涼宮ハルヒの憂鬱/谷川流ですが、ガジェットを挙げてみると、
G(ハルヒ)=精神世界、宇宙人、未来人、超能力者、学生生活……
となります。
いくらかSFの要素が多いように思えますが、孤島症候群などミステリ的なガジェットを持っているものもあり、各短編ごとにはジャンルわけが可能かもしれませんが、総括してあるようなガジェットは、無いように思えます。
続いて、個人的に好きな、されど罪人は竜と踊る/浅井ラボを考えてみると
G(され竜)=毒舌、バトル、魔法、鬱……
など、およそ涼宮ハルヒの憂鬱との共通点は見受けられません。
けれど、両方とも「ライトノベル」と呼ばれる作品群の中にあり、さらにはレーベルも同じ角川スニーカー文庫です。
レーベル以外で、これらに共通した「核となる要素」はありません。


それでは、何がこれらの小説をして、「ライトノベル」と呼ばせているのか? という点を考えてみると、それが小説としての雛形、枠組み、構造──つまり、フレームワーク的なものだと思うのです。
ライトノベルが、基本的にどのような構造=フレームワークになっているかというと、
「主人公(読者)が、ある出来事(小説)を通して、ひとつの事象(作者)に近づいていく、その方向性」
です。


まず、涼宮ハルヒの憂鬱
構造は
キョンが、様々な出来事を通して、ハルヒに近づいていく」
という三項的な構造です。
前述したされど罪人は竜と踊るの場合でも、
「ガユス・ギギナが、事件を通して、自分たちの過去に近づいていく」
という構造になっています。
#され竜については、序盤しか読んでいないので、続巻では違うことになっているかもしれませんが。


たぶん、このフレームワークというのは、ボクの言葉足らずなこともあり、理解しにくいかもしれませんので、他のフレームワークで上手く行った事例を紹介したいと思います。
このフレームワークで最も上手くいったもののひとつに、黄金期のジャンプフレームワークがあります。
「努力、友情、勝利」というあれです。
フレームワークという言葉よりも、「方程式」という言葉の方がなじみあるかもしれません。
ただ、個人的には、こういった用例で「方程式」という言葉を使うのは、誤っていると思います。この言葉の用例については、また機会を改めて。
「主人公が「努力」の末に、「友情」によって結ばれた仲間と力を合わせて、「勝利」を手にする」という作品構造は、スポーツもの、バトルもの、それこそジャンルを問わずに使用され、成功を収めています。
他のフレームワーク事例としては、ハリウッド映画フレームワークのようなものもあります。
「アクション映画で結ばれるカップル」というやつですよ。
スピードなど思いだして頂ければ、すぐに理解して頂けると思います。


さて、ライトノベルでは、男女間の関係を描いているものが大多数です。
一言で言っちゃうと、「ボーイミーツガール」というやつです。
この、ボーイミーツガールというのは、上記の「主人公(読者)が、ある出来事(小説)を通して、ひとつの事象(作者)に近づいていく、その方向性」というフレームワークに、最も簡単に合致させることができるもののひとつです。
本来、「ひとつの事象」は、主人公の内面だったり、世界平和だったり、自分の過去だったり、なんだってありですが、「ヒロイン」を入れる場合が、非常に多いです。
なぜなら、自分探しの旅だとか、世界平和のための戦い、というよりも、誰かに自分の想いを届ける、という行為は普遍性を持っているだろうし、何より、方向性としてわかりやすいからです。
ただ、ここで注意したいのが、単純に男女の恋愛を描いていれば、ボーイミーツガールでライトノベルになるのか? と言えばそう言うわけではなく、重要なのは「近づいていく方向性」だというところです。
あくまで、「対象=ヒロイン」に対して「向かっていく方向」で物語が進まなくてはならないのです。
「主人公とヒロインの間の恋愛の成就に向かって」ではなく、「主人公からヒロインに向かって」です。
最終的な到達点は、二人の間の関係ではなく、相手=対象になるわけです。
これが、普通の恋愛小説とは違うところなんじゃないかと思います。


このように、ライトノベルフレームワークを使用していない小説が、「出来事」を描こうとするのに対して、ライトノベルフレームワークは、「最終的な事象」を描きます。
もちろん、ライトノベルフレームワーク以外の小説に置いても「最終的な事象=結論」は、(大体の小説で)存在しています。しかし、それは「途中の出来事によって導き出される当然の結論」です。
つまり、方向としては
途中の出来事⇒最終的な事象
となります。
一方、ライトノベルフレームワークでは、最終的な事象に向かう流れとして、途中の出来事が設定されます。
流れは以外の小説とは逆になり、
最終的な事象⇒途中の出来事
となるわけです。
「はじめに結論ありき」というわけではなく、あくまで「最終的な事象に向かう流れが「ライトノベル」だ」というわけです。


この、ライトノベルフレームワークを考えることで、大体のライトノベルと呼ばれる小説群に対して、ある一定の共通項を見つけることができるんじゃないかと考えています。
ライトノベルとしては、かなり異端にも思えるマルドゥックスクランブル/冲方丁ですが、このフレームワークで捉えると、
「バロット(主人公)が、シェル、ボイルドとの闘争を通して、自らの存在有用性(最終的な事象)に「向かう」」
構造となっており、非常にきれいなライトノベルフレームワークに乗っ取っていることがわかる。
一見、マルドゥックがライトノベルに見えないところは、フレームワークに用意されている「関数」「部品」とも言えるようなものを、ほとんど使っていないのが原因だと思う。
マルドゥックスクランブルとは逆に、ライトノベルフレームワークに用意されている「関数」「部品」を数多く使いながらも、フレームワーク自体にはのっていない、という作品として、撲殺天使ドクロちゃんが挙げられますが、長くなってきたので、ここら辺でいったん締めたいと思います。


ドクロちゃんについては、後日、「ライトノベルフレームワークで用いられる、キャラクタという部品」について語るときに、触れる予定です。

[Today's tune]God Given/Nine Inch Nails