世界の終わりの終わり(佐藤友哉)

世界の終わりの終わり

世界の終わりの終わり

この絶望が嘘だと思うのなら、
この寂寥が偽りだと思うのなら、
キミも小説を書いてみると良い。
失われた十年」を生きて──いや、「生き残ってしまった」人間には、いったい何が残されているのか/何を産み出すことができるのか?
それを考えると、非常に辛いものがある。
もう、ボクなどにはどうしようもないくらいに。


エヴァの新作映画が公開されて、ボクは、ある種の感慨と共に、それを観た。
映像が綺麗になっていた、とか、そう言った単純なことではない。
「あの物語」を、遠くから冷静に眺めている自分に気が付いた。
それを察した瞬間、ボクの中で、「ボクの十年」が、遠くに過ぎたことを悟った。


北海道の一地方都市の十代にとって、エヴァというのは、まさしく「セカイ」を変えるのに十分たる存在だった。


そして、それは「小説」にしても同じことが言える。
「十代」のボクは、「或阿呆の一生」を手にし、「愛と幻想のファシズム」を手にし、「銀河鉄道の夜」を手にし、「斜陽」を手にした。
彼らが、ボクの「セカイ」を変えた。
それがすなわち、「セカイ」の「終わり」──「始まり」。


それからしばらくして、十代の終わり、ボクはミステリに出会い、そして、「書く」ことを知ってしまった。
これが、きっと、「セカイ」の「終わりの終わり」。


最近は、本だけではなくて携帯電話などで小説を読む人も増えて、活字離れなんて今更言う人もいなくなってはいるけど、その分、「小説の恐ろしさ」というものが、あまりにもないがしろにされている気がしてならない。
もちろん、多くの人が小説に触れることは悪いことだとは思っていない。むしろ、良いことだと思っている。
けれど、人間失格を、たった数十分であらすじだけを紹介して、それでわかったふりになっているのは、違うんじゃないかと思う。


小説を読む人が増えているのと同じように、小説を書く人が増えるのも良いことだと思う。
けど、書く人には、ある程度の覚悟は持って欲しい。
先達が、何人も気を狂わせ、命を絶っている、そんなことに手を染めようとしていることに。
もちろん、健全な精神を持ち、「正常」の中で書いている人もいるわけだけど。


佐藤友哉のように、逃げて、逃げて、逃げて、そして、立ち向かう。
それくらいの意気込みがないと、小説は、書けないのではないか?
そうしないと、「自分の納得する小説」というものを、自分で産み出すことはできないのではないか?
そう思う。


ところで、ユヤタンって、メガネ男子だったっけ? と著者近影を見て思ったり、先週末のGoodRockの涼宮ハルヒの憂鬱コスイベントの時に、長門さんコスしてるメイドさんがいたら世界の終わりの終わりを持ってもらってチェキ撮ろうと思ったんだけど、残念ながら長門さんコス予定のメイドさんが諸事情により来られなくなって、長門さん(コスのメイドさん)にユヤタンの本を持ってもらうという、あまり多くはないと思われるユヤタンファンの中でも、さらに極小範囲の人間にしかアピールしないようなネタをやろうとしたのが失敗に終わってしょんぼりしてたのは、秘密のひみつだ。
あ、長門さんコスの予定だったメイドさん、お大事に。
それと、チェキは代わりにZOID@エヴァコスで、ミサトさんコスのうるたすに撮ってもらったので。
わーい。