制作者と受信者のすれ違い

例の、東京都の青少年健全育成条例の改正ですが、
報道にもあるとおり、継続審議が決まりました。
そして、すぐに、ということがなくなったせいか、
だんだんと、やっぱり規制した方がいいんじゃね?
という意見が、ネット上でもちらほらと見えるようになってきました。
それらの意見など見ていて、ちょっと思ったことがあったので、
まとめてみようと思います。


マンガとか小説とかアニメといえば、
だいたい思い浮かべるのは、
それを読む/見るという行為であり、
それらを描く/書く/作るという行為は、
どうしても第一には浮かんできません。
それは、描いたり書いたりする行為が、
誰にもできるものではない、特別なものだから、
という考えが根底にあるような気がしています。
だから、条例(など)に反対するようなとき、
制作者側よりも、自分がいる側=受信者の側に立って、
意見を述べることになります。


この、制作者/受信者の間には、もしかするととても超えられないくらいの、
深い溝が横たわってるような気がしてなりません。
今回の件でも、漫画家、小説家などが、
反対の意を表明しました。
彼ら/彼女達が、なぜ条例改正に反対したのか? というところを考えないと、
今後、同じようなことが起こりうるのでは? と思います。


そう、なぜ、制作者たちは今回反対したのか?
それはたったひとつ、
自分たちの描きたいもの/書きたいもの/作りたいものが、
作れなくなるから、というだけではないでしょうか?


(アニメは若干事情は違うかもしれないけど)
マンガとか小説っていうのは、(多分)作者が、
自分の伝えたいことを伝える、ひとつの手段だと思うんです。
どうしてもこれが描きたい/書きたい、と、
心の底からわき上がる情念を落とし込む先なんじゃないかと。
「描くな/書くな」というのは「思うな」に直結します。
思ったならば、それを描かなければ/書かなければならないのだから。


たぶん、この、描くしかない/書くしかないということは、
描かない/書かない人にはずっと理解できないことだろうし、
この溝がある限り、今回のようなことは、また起こるんだろうと思う。