天帝のはしたなき果実(古野まほろ)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

帯の言葉に騙されて購入してから数ヶ月。
間にいくつもの本をはさみながらも、やっと読みおわりましたよ!
がんばった、ボク。
何よりもまず気になったのが、おびただしい数のルビ!
最近は、こういうのが流行なのかな? かな?
でもね、こうやって乱発するとあまり意味がないと思うんだ。
別に、ルビを多用することで、特徴的な文体になっているわけでもないし。
あと、たぶん、すでに指摘されていることだとは思うけど、衒学趣味が完全にただのおままごと状態になっている。
やるなら、ネットと入門書で手にはいるような情報は、衒学の名に値しません。
だから、いくら言葉を並べられても、目も眩むどころか、自分のメガネが曇ったのか? としか思えないような意味のなさ。
いや、今日はコンタクトだけどさ。
ええとね、でも、こうやって書いてるけど、実は、後半面白かったよ?
あれだね、読者への挑戦のところは良かった。
というより、あの1章を入れたことだけでも評価できる。
そこからの、推理合戦にはうっとり。
ミステリの愉悦というのは、ああやって論理をひとりで転がしていくことにあるんじゃないのか?
しかし、だからこそ、その先の締め方は納得いかない!
この小説に最大の欠点であり、虚無への供物に決して届くことがない理由は、最後の締め方にある。
どうして、そこでそんな要素を入れる必要がある?
「それ」は、ミステリの要素じゃない。
「それ」によって、せっかく築き上げられた「ミステリ」の土台ががらがらと崩れ落ち、「越境」も「純化」も「反転」もせず、あとには哀れな灰燼のみが。


それにしても、「虚無への供物」にはフォロワーが多いのに、どうして「黒死館殺人事件」にはフォロワーがいないのはなんでなんだぜ?