「文学」と「文芸」からケータイ小説にまで至る

安眠練炭さんの「「文学」とは?」というエントリを読んで思ったこと。


ええと、別に、文学とか文芸の違いについて、滔々と語ったり、自分の文学・文芸論をぶちまけようと言う訳じゃないです。

 芸術としての「文学」はまた「文芸」とも呼ばれるが、字面の上での対比だと、「学」を含む前者より「芸」を含む後者のほうがより芸術としての側面を強調しているように思えるのだが、実際には「文芸」のほうがより包括的で、「文学」はより限られたものを指すことが多いように思われる。なぜそうなっているのかはわからないが、それぞれの言葉の歴史の違いに基づくのだろう。

とありますが、実は、文芸の「芸」は、民藝の「藝」なんじゃないだろうかと。
ええと、民藝については、うぃきぺたんに調べてもらいました。
こちらです。
民芸(wikipedia)
つまり、民藝とは、普通の人が普段の生活の中で使う道具の中にこそ、美しさが現れるのではないか? という感じのことです。
そのあたりを勉強したのが、もうだいぶ前なので記憶も曖昧ですが。
最近の日本でも微妙に流行ったりした、イームズのシェルチェアとかも、同じような思想だったはず。
で、この藝が文とくっついたときにどういう意味合いを持つのか? と考えると、特別な芸術志向ではなく、普通の人が日常使うような文章、言葉、それを文藝と言ったのでは? と想像できる訳です。


つまり、文藝と文学は、その作者が立脚している思想の違いにより分けられるべきものなのではないだろうか?
と言うところまで、考えられる訳です。


印象派の絵画を分けもわからず高値で買い求めるように、その存在の意味するところを理解もせず、文学というものの価値を盲信している人が多くないだろうか? ケータイ小説について否定的な意見を述べる人のどれくらいが、文学と言うものの本当の価値を理解しているだろうか?
ボクには、偉そうに語る彼らの顔が、どこか狂信者が邪神に祈りを捧げているかのように思えてならないのです。

[Today's tune]プリズムの夜/ACIDMAN