テキストについて

JAMとか動かない電車の中で、侏儒の言葉だとか文芸的な、余りに文芸的な、を読んでいました。
私は、侏儒の言葉にある、文章という一説が好きです。「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」ーー短い一説ですが、これが小説ーーひいては文章というのものの本質を表していると思います。


最近は、なぜか小説というものがひとときに比べて売れているらしく、ベストセラーを原作とした映画も数多く上映されています。
そうした小説の、いくつが「辞書の中にあるときよりも美しい言葉」で書かれているのだろうか? と疑問に思うことが多々あります。
不勉強なもので、昨今のベストセラーのほとんどには目を通していないのですが、さらっと斜め読みした限りでは、平易な文句の多用、わかりやすい表現、説明的な文の使用、などが目につきました。まるで、電化製品の取扱説明書を読んでいるようでした。
行間のない文章とでも言いましょうか。物足りない言葉で書いてあることがすべてなのです。私は、愕然としました。
ーー簡潔な表現、そう言って思い出されるのは、文豪・谷崎潤一郎です。しかし、彼の文章には、その文の間だから、にじみ出る情感のような、空気のようなものが確かにあります。くどくどと言葉を繋げるよりも、さらに濃厚ににじみ出る、何かが。
そのような力量があったらこそ、谷崎はあのような文章の理想を説いたのだろうし、それを実践したのでしょう。
翻って、最近の流行小説を見ると、確かに表現は簡素です。
しかし、それだけです。
あれなら辞書の中の文字を見た方が美しいです。
文芸的な、余りに文芸的な、の中で、芥川は、「筋のない小説」もありえる、それにも価値を見いだして良いのでは? そう主張しています。
これも、最近の小説では考えられないことではないでしょうか?
小説とは、何かの物語であり、「事件」が起こり、「登場人物」が、それを乗り越えていく、もしくは、悲劇的な結末を迎える、そう決めつけられています。
巷には、感動病というか、無ければ良い小説という風潮があります。これが、泣けなければ良い小説にあらず、そうなるのは当然の帰結ではないでしょうか。
「泣く」ためには、人は物語を必要とします。
小説で涙を流すという行為は、基本的には共感という感情の現れであるので。
つまり、何が言いたいかというと、現代ほど、「筋のない小説」が産まれるのに難しい時代もないだろう、ということです。


しかしながら、現代ほど人々が文章を書いている時代はないでしょう。
こうやって毎日日記を書いている人もいれば、長文メールをやりとりする人もいる。
一昔前には、考えられなかったことではないでしょうか?
この、かつて無い文章大量生産時代が、文章というものの未来に、いったいどんな影響を与えるのか? 興味は尽きないところではありますが、今日はこれにて。


#ところで、今日はフタコイの日?

[Today's tune]Guilt Is A Useless Emotion/New Order