「ならぬことはならぬものです」とはどういうことなのかを考えてみる

今年の大河ドラマ「八重の桜」が始まりましたね。
綾瀬はるかがスペンサー銃を持った姿かっこいいですね。
構えて狙うときにアレだけしっかり目をつぶるというのは、アレですかね、幕末ころはアレがメジャーだったんですかね。銃の構え方なんて、時代によって変わるものだから、どうなのかはわかりませんが。でも、銃+女の子という時点で勝ちですね。いや、会津は負けてるんですけどね。


というわけで、作中で象徴的に何度も出てくる「什の掟」の「ならぬことはならぬものです」という言葉について、ちょっと考えてみようかと思います。


予想通りというか、想定通りというか、「ならぬことはならぬものです」=「ダメなことはダメ」と、有無を言わさず、何かを言い聞かせる、強制させるものとしてとらえてると思われることをtwitterなどで呟いてるのを多数見かけます。
確かに、言葉の表面を何も考えることなく見れば、その通りなのかもしれませんが、はたして、会津で使われていた「ならぬことはならぬものです」というのは、そういう意味だったんだろうか? と、ぼくは疑問に思うのです。
「ダメなことはダメ」というのであれば、1話で容保公が八重にあのような言葉をかけることはなかったと思います。
だって、江戸時代じゃん? 子ども、しかも女に向かって「武士のよう」とか、絶対に認められない時代じゃん?
子ども、しかも女に向かって「武士」なんて、誇り高いはずの武士──それも、武士の頂点にあるとも言える、徳川将軍家に連なる会津松平家の君主である容保公が言うなんて、そういう単純な理解だと違和感を覚えるはずのところだと思うんですが、いろいろ見てるとそうでもないみたいなんですが、まぁ、そうなんだろうなぁ。


なぜ、「ならぬことはならぬものです」を支えとしている容保公が、八重を「武士」として認めるという「(武士の世としては)ならぬこと」を認めることができたのか?
そう考えると、「ならぬことはならぬものです」という「ならぬこと」というのは、単純に、決めた規則だとか、儀礼だとか、そう言った決まり事から外れることを指すのではないのではないか? と考えることができます。


それでは、「ならぬこと」というのは何か?
それはたぶん、これから1年をかけて「八重の桜」の中で描かれていくことになるとは思いますが、会津藩が幕末という動乱の時代の中で、どのような運命をたどったのか? を思うと、自然と答えは出てくるような気がしています。
武士として、曲げることのできないモノが何なのか。
その、曲げることのできないモノがあったからこそ、会津藩は戦ったのではないでしょうか。


ということを思いながら、改めて薄桜鬼のはじめくんシナリオを考えると、激しくきゅんきゅんごろごろごろごろしちゃうね! うん!
なので、薄桜鬼碧血録の会津回の感想を貼っておく。
http://coto-hakuouki-fan.seesaa.net/article/170321973.html