ライトノベルフレームワーク論第2回

と言うわけで、この前書いたライトノベルフレームワーク論の第2回。
全開はこちら
今回はライトノベルについて語るときに外すことはできないキャラクター論について。
と思ったら、いつの間にかちょっと面白いキャラクタ論があったので、リンクしてみるテスト。
d:id:negirin:20070505:1178382485
リンクしてみたは良いんですが、これから載せようとしている内容とは、ほとんど関係ないなぁ、とか。
リンク先のテキストが、「キャラクタの属性」に焦点を絞っているのに対して、ボクのテキストは、あくまで「ライトノベルフレームワーク論におけるキャラクタの役割」についてなので。
つまり、「キャラクタって何?」という人は、上記リンク先をご覧下さい、と言うわけです。
じゃあ、ここから本文。
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ライトノベルフレームワーク
2.キャラクタ・シチュエーション機能
ライトノベルの重要な要素として語られるものに、定型的なキャラクタやシチュエーションがある。場合によっては、それらをライトノベルの定義として採用しているものもある。
それ故、本論でも、それらキャラクタについて触れないわけにはいかない。


では、ライトノベルの定型的なキャラクタやシチュエーションは何かというと、「ライトノベルフレームワークを記述する上で有効な部品、機能」であると思う。


ライトノベルとは、「主人公が何らかの出来事を通して最終的な事象へと向かう方向性」だと述べたが、その方向性を記述する際に用意された有効な手段が、キャラクタであり、シチュエーションである。
.NETなどのWebアプリフレームワークでは、C#などの言語などが用意されている。
ライトノベルフレームワークの定義を述べるところで、例として触れた「努力、友情、勝利」の少年ジャンプフレームワークでは、「ライバルの存在、主人公を導く先達」などのキャラクタ的な部品や、「初めての挫折、最終決戦での逆転勝利」などのシチュエーション的な機能が用意されていた。


ライトノベルにおいても、これと同様のことが言えるのではないか。
「最終的な事象」に相当する「ヒロイン」を特徴付けるための、「幼なじみ」「妹」などの属性、「何らかの出来事」を効果的に起こすための、「ツンデレ」「素直クール」などの性格付けなど、ひとつの「機能」として考えられる。
読者は、それら「機能」がどのような役割を果たすかを(ほぼ)把握しているため、より容易にライトノベルフレームワークを稼働させることができる。
例えば、涼宮ハルヒの憂鬱では、ハルヒに「ツンデレ、変人」などの性格付けがされている。
そこから読者は、ツンデレ→ヒロインの内面における葛藤→別空間の出現という一連の流れを認めることができます。
これで、もし、ハルヒが普通の素直な性格にされていたら、もちろん内面の葛藤などないという「前提」になるため、異空間の出現は「必然性のないこと」として認められなくなります。
長門さんの素直クール具合も、同様の役割を失踪でしています。
ここで、もうひとりのヒロインであるみくるですが、彼女の性格付けは「「一般的イメージの」萌え、どじっ娘」などとされていますが、こういうキャラクタの性格付けは、「萌える対象」と認識されることはあっても、「最終的な事象」と認識されるものではありません。
それ故、彼女中心の話というのは、必然的に成り立ちにくくなるため、他の二人に比べればどうしても一歩退いた位置に納まってしまうのです。


ここで、この「キャラクタ・シチュエーション機能」を使いつつも、ライトノベルフレームワークをほとんど無視している作品として、撲殺天使ドクロちゃん/おかゆまさきに触れたいと思います。
ドクロちゃんは、皆さんご存じのとおり、「これぞライトノベル!」という道具で満たされています。
いまいちぱっとしない主人公に、突然現れたドクロちゃん、ロリだけどナイスバディ、内気なクラスメイト、実は主人公に気がある、はちゃめちゃな展開、結局どうにかなるご都合主義などなど。
これらの道具は、ライトノベルフレームワークを構成するために用意された機能群です。
しかし、ドクロちゃんでは、ライトノベルフレームワーク論の肝となる、主人公が向かうべき「最終的な事象」が存在していません。
主人公は、平穏な生活を望みますが、結局はドクロちゃんのいる世界を選択します。
そして、その間、小説内では、主人公が向かうべき最終的な事象は示されません。
ドクロちゃんの居る生活、というのなら、主人公はそれを得るために、向かう方向性を見せる必要があります。
しかし、それはほとんど見られません。


ならば、ドクロちゃんライトノベルではないのか? というと、その通りまっとうな意味でのライトノベルでは無いと思います。
ライトノベルではなく、ライトノベルのパロディ、反ライトノベルなどと言うことができるのではないでしょうか?

  • まとめ

以上、2回にわたり、今ボクが考えている、ライトノベルというものについてまとめてみました。
もちろん、ただ、読んで楽しい、と言うだけであれば、こういう考察は必要ありません。
しかし、これから先も、ライトノベルが現状と同じように出版され続けるとは限りません。このまま、ただそれなりに「萌え」という感じのものを出せばいい、という状況が続くと、ある一定以上の水準のものは出版されなくなると思います。
せっかく開いた、ライトノベルという徒花。
大きく咲かせるためにも、ただ読むばかりではなく、現状を理解しようとすることも必要なのではないでしょうか。
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